コンテンポラリー読書会

都内で開催している読書会のブログです。

セッションズ共催・本田秀夫『自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体』読書会報告

はじめまして。今回は現場に僕しかいなかったので、飯田(いいだまん/@FLASH1N, id:flashingwind)が書きます。よろしくお願いします。

素人論客イベント「セッションズ」 (@ron_kara)との共催で「自閉症スペクトラム」や「発達障害」などをテーマとした読書会を開催しました。

僕は主催でもないし、ちょっと遅れて行ったし、ここでは、全体としての俯瞰的なまとめは無理なのでしません。個人的に思ったことと、言っときたいことだけ書きます。(軽くアルコールも入ってたのと、筆箱忘れてメモも取ってないという情けない事情もあるのですが。)

会場の雰囲気について

ばっちり自閉症の当事者という参加者こそいなかったと思いますが、みなさん色々「生きにくい」感じが、あったりなかったりされるようでした(僕もアレだしね)。

という感じで、晩ご飯が出てお酒も飲める、という我がコンテンポラリー読書会としては、いままでにない画期的なイベントでした。

共催とはいえ、元々、平日だったりして、コンテンポラリー側からは2人だけ、主催の内の1人・カネダ()と僕が参加する予定だったのですが、なんと小田急脱線事故の関係でカネダさんも来れなくなってしまい、結局僕ひとりに。

さすがに未知の会場で、面識のある方がいない、ということになって結構ビビってましたが、ふたを開けてみると、なんか友だちの家でだべってるような感覚でくつろいでしまいました。

カネダさんは前日に

などと書いておりまして、楽しみにしていたようだったから、まあ、悪いなあと思いつつも、僕はがっつり楽しんできました!

 

そういえば、コンテンポラリー読書会にはじめて参加したときも、知らない会場で、知らない人とやるという、似たような状況でした。が、やはりその時もわりと自然に参加できたのを思い出しました。

読書会って、ぜんぜん知らない人ばかりでも、本という共通の話題が用意されていますから、なんとかなってしまうみたいです。

意見を脳内で組み立てて議論に参加するというのは、慣れてないとハードルが高いのかなと思いますが、発言しないで、みんなの議論の中から新しい考え方が生まれるのを聞いているというのも、僕は面白いと思います。

(だから、みなさんコンテンポラリー読書会にも、ぜひお気軽にご参加ください!)

 

とはいえ、もちろんホストの仕事も重要です。今回、レジュメ作ったり司会したり、実質的に1人で仕切ってくださったのはセッションズ運営のいちじくさん。感謝いたします。また、会場提供&お料理・お酒係してくれたよしだすん(@greatful_pet)さんにも。

 

さて、すでにだいぶ長く書いたのでここまでで終わってもいい気がしますが、やっぱり読書会のブログで本の内容にまったく触れないのもまずい気がするので、あらすじ的なことを書こうと思います。その後、僕個人の意見もついでに。 

本の紹介 

この本は、横浜の公立の施設で自閉症スペクトラムの子供などの成長のサポートをやってきたという精神科医による、一般向けの啓蒙書みたいな内容の本。新書です。

前半では「自閉症スペクトラム」という概念とその中に含まれる症状の分類を、自閉のレベルや併存する障害の程度などでさっくり区切ってみせる。

これは大変わかりやすい。

さらに、それらの「性質」のような分け方とは独立した観点から「障害」「非障害」という、日常生活の困難という指標で分ける分類がある、という考え方をする。

 

このように診断名を整理した上で、後半では、傾向と対策を説明している。簡単に言えば、できるだけ早い時期に自閉症スペクトラムに含まれるか判断し、乳幼児から成長の各ステップごとに自閉症スペクトラム専用の育て方などを選ぶことを勧める。また、その具体的な方法やコツを、症状・問題や年齢ごとに細かくノウハウとして豊富に載せている。

 

「ラベル付け」についての個人的な違和感 

ただ、僕としてはこの

「早期診断→適切な対応」

みたいな流れを義務とするような価値観になじめない。

ここで、本人の意思があんまり考慮されていないような気がするのだ。

だから、当日はその点についてはわりとしつこく「診断名というラベル付けは〜」「ラベル付けは〜」とうるさく主張してしまった。(しつこいわりに説明が下手なので、上手く伝わったかはわからない。)

実際のところ、障害といえるレベルで自閉症スペクトラムの症状があったら、「ラベル勝手に貼られない自由」なんていうことは言ってられないだろうとな、とも思う。

 

しかし、それにしてもこの本は、ラベルを貼ることの威力を、軽視しすぎていまいか。

 

まず、自閉症スペクトラムにはラベルが貼られるべきだ、という(拒否してはいけないのだろうか?)。

次に、ラベルが貼られたら、そのラベルにあった生活スタイルや進路に変えるべきだという(たぶん子供なら勝手に変えられてしまうこともあるだろう。親や行政が適切な教育を受けさせないのはネグレクトだというような文章もあった)。

また、ラベルには、これら外部からの話とは別に、ラベルが付いたと本人が知ると、本人の意識の持ち方や行動が、無意識に変わるという力もある。 

こういうシステムって、いずれも一度動き出すとかなり自動的・不可逆的に進む過程だだろうから、最初にラベルが貼られる段階か、それを周知する段階で止めないと、もう止まらないのではないか。だとすれば、ラベリングと、ラベルの周知を強制されてしまったら、もう本人の意思が介在する隙はないといえるだろう。

 

もし僕が当事者だったらと想像してみると、物心つく前から、勝手にそういう目で見られて、気づかないうちに自分の自由を制限されていたり、ふさわしいように価値観を作られている可能性があるわけだ。それを後になって知ったりするわけで、あんまりいい気分の話ではないんじゃないかと思う。

でも、多少は弊害があったとしても、QOLのために、必要があれば素直に診断名を受け入れて、生活をスムースに送れるようにすべきだというのが、本書の立場なのだろう。

 

しかし、ふさわしい扱いを受ける権利を保証するのと、それを受けるのが義務だと考えることの間には深い谷がある。その点は、もう少し慎重になってもよいのではないか。

おわり 

現場でいい足りなかったことばっかり書いてしまいました。個人的なブログに書くつもりだった文章を流用したので、僕の見解に偏ったレポートになってしまったけど、ご勘弁願いたい。

ところで技術系の世界では、Twitterが流行り始めた頃、LT(Lightning Talks; 雷のように短いという意味で、全員発表の5〜10分くらいのプレゼン合戦)や勉強会のブームがあった。その時に盛んに言われたフレーズがあって、それは

「ブログに記事を書くまでがイベントです」

というもの(「遠足は帰るまでが…」の調子で読んでください)。

情報系とか工学系だと常識のようだから、あえて説明しないでも文系の人だって耳にしたことはあるのかな(?)。

まあ、興味を持ったことをお互い紹介しあうことで、知識も定着するし、みんなの評価もわかるということです。また、おそらく各自が宣伝に貢献するという意味もあるのでしょうね。

さらに自分が発表した場合はSlideshareなどにパワポをアップロードし、ブログに発表内容の解説と補足を書き、作成したコードや参考文献も載せます。場合によっては発表の録画も。

そういった文化に毒されているので、僕は毎回ブログを書かなければいけないと思って結構罪悪感があったのです。でも、いかんせん数時間分の会話の抜粋って難しい。

それが今回、たまたま書けという依頼があって、ともかく何かは書けました。やっと義務を果たせた気分。次回以降は自分のブログなどに書きたいところですが、どうなるかな……。

以上、長くなってしまいましたが、報告でした。

参加者・運営のみなさんありがとうございました。

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