近代美術館見学+ルーマン理論を学ぶ読書会 報告
主宰者のカネダです。
去る6月19日、国立近代美術館で開催されている「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」へ読書会として見学に行きました。
展覧会は、ヤゲオ財団という台湾の企業関連の財団のコレクションを公開するという内容で、単にコレクション展というだけでなく、展示コンセプトとしてそのことが全面に押し出されたものでした。
今回の読書会は、そうした実際の美術のシステムを通して、ニコラス・ルーマンのシステム理論を学ぶという趣旨で企画されたものです。
ー当日までの大まかな流れー
前回、あまり社会学のグランデッドセオリーが扱われなかったので、そうしたことを扱いたいという要望があった。
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ルーマン入門書を読むことにする。
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システムの具体例として美術を参照する回をプレ企画として設ける。
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どうせなら直接美術館に行こう。
当日は、美術館見学をした後、そのことを踏まえてニコラス・ルーマン『自己言及性について』「第10章芸術作品と芸術の自己生産」「第11章 芸術のメディア」について検討する予定でしたが、プレゼンターの方がレジュメを作ってこれず、テキストの参照無しで、美術界の仕組みをルーマンのシステム理論に沿って検討するという内容で話が進められました。
ごく簡単に纏めると以下のような内容です。
1)ルーマン的には、何によって美術が美術であるのかが、客観的に示されるべきであるが、それが見当たらない。
2)価値判断を巡る循環が必要だが、それが機能していない。
3)上記2点から、美術の世界は民主化されていないと言える。
【参加した方からの感想ツイート】
「現代美術のハードコアは…」を見てきました。いつも思うのですが、今回も「すごいけどこれがなぜ数十億円もするのか」って思いました。美術は本当にわかりません。この後、近くのカフェで「社会学的に見て美術とそうでないものを分けるのは何か」みたいなことをしゃべりました
今日は国立近代美術館で「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」を見に行った。一番よかったのは、サンユウという作家の《蓮に白鶴》という題の絵画だった。全体の構図としては、絵の下の方に蓮が生えていて、その水面は、薄いピンクとオレンジを混ぜたような色だった。
赤と黒の小さな金魚たちが存在感なく泳いでいた。背景は、5cmくらいの太い筆で絵の具を霞ませた何本もの黒い縦線で埋め尽くされていた。それは雨にも見えたし、ナウシカに出てくる「腐海」のような感じもした。仏教を感じさせる蓮と、大きな黒い背景が相俟って、この絵全体が「死」を思わせた。
でもこの絵がすごかったのは、薄いピンクとオレンジの水面のせいで、どこかノスタルジアを感じさせていたところ。なんと、死とノスタルジアが共存していた。
ノスタルジアとは自分の生まれ育った故郷へ抱く感情。だからこの絵は、そこで生命が生まれ、そしていずれまたそこへ帰っていくような、そんな場所を表現していた。仏教的な世界観特有の、生きているのか死んでるのか分からない、ただ無言で生命がたゆたっている場所だった。
【カネダ(主宰)の感想】
・展覧会企画の露悪性によって、美術(システム)そのものの俗っぷりが、理解できた。
・ルーマンありきで美術を検討するだけでなく、美術をたたき台にルーマンを検討するような流れがあっても良かったのでは。
ー反省点や今後の課題等ー
レジュメや参照されるテキストが無かったため、意思疎通に手間がかかった様に感じられた。レジュメ作成やプレゼンの仕方について、今後はプレゼンターの方と十分に確認してから、当日に臨みたい。
主宰者の美術知識がぼんやりしていることを痛感させられた。美術サイドの人のテキストも、レジュメを作るなどして参照すべきだった。
最後になりますが、今回も参加して下さった皆さん、ありがとうございます。
次回も実りのある読書会を行いましょう。